HOME > 歴史

「興國寺」の前身は、長野県須坂市南原の臥龍山の中腹に在った。この山の形容は遠くから眺めると、まるで龍がとぐろを巻いて臥しているように見えることから臥龍山と名づけられたという。この山麓が開基家須田氏の発祥の地である。
  
信濃源氏の流れを汲む十九代須田大炊介長義公が、上杉景勝公の侍大将として、信濃(長野県)から越後(新潟県)へ、さらに会津に入って北上し、現在の梁川町鶴ヶ岡に梁川城を築城した。伊達政宗の勢力と拮抗する重要な拠点であったと思われる。
 
梁川城の築城が終わると、直ちに新しい菩提寺の建立を図り、現在の梁川町大町二丁目に広大な面積の境内をさだめた。山号・寺号は信濃国須坂の旧称をそのまま踏襲した。


開基の長義公は猛将として名高く、梁川城を奪還せんと兵を上げた伊達政宗を二度も撃破し、また大阪冬の陣には侍大将として戦い、徳川秀忠公より感状と太刀を賜ったが、戦闘で負傷し梁川城で没した

 


 
 

慶長7年(1602)8月6日、臥龍山興國寺は越後四箇道場の名刹福池山種月寺(新潟市石瀬)の十世丘堂遵虎大和尚を開山禅師に請して開堂した。因みに開山大和尚は大炊介長義公の母方の本荘家の血縁に当たる方である。

 
二世快山貫益大和尚、三世箭覚恕的大和尚の頃には、各地より余多の雲水が参集して、次第に大叢林の姿を成し「奥州梁川の興國寺」の偉名を全国に轟かせるに至った。
 
貞享5年(1688)2月には、当時の梁川藩主松平出雲守の推挙により、幕府寺社奉行より禄所免許あり「僧禄司触頭」となった。

また元禄10年(1697)には、両大本山より常恒会地(別格寺院)の免牘を受ける。
 
福島市瀬上、青楊山竜源寺始め21ヶ寺の門葉寺院が生まれた。
 
爾来、修行道場の伝統をたもち、明治3年より昭和3年までは曹洞宗認可僧堂、昭和4年より18年までは曹洞宗専門僧堂として余多の雲水が掛搭(かた)し、弁道に励んだ。主に福島県、宮城県、山形県、岩手県に師寮寺がある方々が多かった。


興國寺出身の名僧智識は数多く、枚挙にいとまないぐらいである。近世に於いても二十二世(大本山西堂)二十三世(大本山後堂)二十四世(大本山後堂)などが挙げられるが、その中でも当山が最も誇りにするのは、大本山總持寺独住第五世新井石禅禅師さまである。

 
禅師さまは元治元年(1864)梁川町右城町の当山檀家石井仙助氏の二男として出生。幼名仙次郎。12歳のときに当山二十二世新井如禅老師に就いて出家得度する。天性の英才とひたむきな勉学弁道により、26歳にして曹洞宗大学林(現駒澤大学)の教授兼学監となって世間の注目を集めた。
 
 

 

 

 
 
 

善徳寺(埼玉)、大栄寺、雲洞庵(新潟)、護国寺(愛知)、最乘寺(神奈川)と転住を重ね、大正9年に57歳にして大本山總持寺貫首として猊座に着かれた。

国内に於いては宗派の如何を問わず、禅師さまの人徳に帰依する人々が多かった。特に時の清浦奎吾内閣総理大臣よりの信任篤く、民間の平和使節として親書を携え、渡米してアメリカ大統領ハーディング氏と会見して人種の偏見の是正と世界平和を説いたことは有名である。
 
多数の著書があり『新井石禅禅師全集』に収められている。
 
昭和2年、64歳にて遷化す。興國寺に分骨が奉祀され、昭和7年に境内に銅像が建立されたが太平洋戦争末期に供出。その後五十回忌法要を機縁に、昭和54年に現住の発願により再建される。いまなお参詣の人々による香華が絶えることがない。
 


 
 
昭和20年8月15日、太平洋戦争の終結とともに当山の寺門の維持は大きな変化を余儀なくされた。
 
農地解放によって寺有財産の一切を失い僧堂も閉単となり、衰退するのみであった。
 
現住の時代に至って檀信徒の教化に心血を注ぎ、護持会や婦人会の活動が活発となった。
 
護持会の役員機構の五部編成(総務・財務・式典・広報・設斎)や、婦人会が東北管区のモデル婦人会に挙げられるなど、“新しい興國寺”の姿に生まれ変わろうとしている。
 
 

 
 
 



梁川町の文化財指定を受けている「エゾ錦」など四点。狩野探幽の「寒山拾得図」、狩野探水の「准胝観音画」などがある。
本堂及び研修道場、庫裡の建物坪数は570坪。

露姫の女駕篭

蝦夷錦

「興国禅寺」額

参玄閣の襖絵

寒山拾得図

准胝観音図

涅槃図軸

蚕碑